ラベル 歴史history の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 歴史history の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2019年9月13日金曜日

104歳の長崎の祖母逝く。




9月9日、寝たきりだった長崎の祖母が亡くなった。104歳だった。

100歳を超えて本当に長生きした祖母だった。


祖母は、自宅に茶室を作り、お茶のお点前を教える先生をしていた。


子供の頃のある日、長崎の祖父母の家に行ったとき茶室に忍び込んで、偶然そこに置いてあった「茶碗」という分厚い本をみて衝撃を受けた。そこには国宝の名碗などが写真とともに解説がしてあるのだが、本当に美しい茶碗ばかりで、特に最初にある曜変天目茶碗には心を奪われた。この日、完全に茶碗の世界に引きずり込まれた。

それ以来、行くたびに茶室に忍び込んで、たくさんのお茶碗を眺めるのが好きになった。


※あの本は、有名な本みたいで、いろんなところで見る機会があったので、きっと「茶碗」という題名を探せばそれしかないと思う。



そんな祖母だから、お茶を毎日飲んでいた。そのせいかもしれないが104歳という長寿になったのかもしれない。お茶は体にいいんだろうね。カテキンとか。




本当に優しい祖母だった。会うたびに必ず抹茶をたててくれた。

たまに会うからこそ気づくんだけど、80歳を過ぎた頃から抹茶の中に玉や、味にムラができだした。本人は同じようにたてていると思っていうんだろうけど、だんだん老いが進んでいることを僕は感じていた。でもたててくれる心が嬉しくて「おいしい」と言って飲んでいた。


そのうち、抹茶を点てることができなくなった。


意識があるうちに長崎に行ってお茶をたてて貰えば良かったと後悔している。


ちょうど、展覧会の搬入が終わったところだったから、葬儀に向かった。

20年ぶりの長崎だった。


駅前や街の様子はすっかり変わっていた。






深堀隆介
Riusuke Fukahori










2017年4月9日日曜日

新幹線から見えた前方後円墳からいろいろ推測


名古屋から新幹線で東海道を東へ行って、30分くらい行った安城市あたりを走行中、田んぼの中に明らかに古墳らしき塚が見えた。


絶対あれは古墳だと確信して、帰宅してから調べてみるとやはり安城市にある二子古墳という前方後円墳だった。



しかも周りには古墳群だらけ、まさに古墳銀座だ。


岡崎の西方に広がるこの一帯は何を表すのか?


僕は自論で、古代人は都市の西側に古墳を作ると考えている。

つまり古代都市は、日登る東が「神宮」で 真中が「都」、そして日が沈む西が「墳墓」という配置になっていると思う。ちなみに現代でも大正・昭和天皇の御陵は皇居から西の武蔵野にある。

<伊勢、宇佐、鹿島、神宮と呼ばれる神社は全て陸の東端にある。でも大社と呼ばれる神社は古墳と同じ西端にある。これは潰された国の王の呪いを恐れた鎮魂のためだと考える。>


そう考えると、古代都市は岡崎中心部もしくはその周辺にあったと推測される。


岡崎は台地の上にあり、水戸や金沢の都市形成に似ている。

たいていの古墳の西側は海や湖や川になる。つまり都市の西側の水場のキワに作られるということだ(自論)。

矢作川が東になっているが、僕は古代矢作川は古墳の西にあったのではと仮定した。本当に古代矢作川が古墳の西ならば僕の自論は正解に近くなる。



<また、西に水場がない場合、どんつきの山の裾野に作られるが(宮﨑県西都市の古墳群など)、この中には後世に作られた可能性もあるように感じる。調べてみないとわからないが。ちなみに奈良・箸墓古墳は当時西側が大きな湖だったと私は推測する>


岡崎にはどんな古代都市があったのだろう?きっと尾張国に次ぐかなり大きな都市だったに違いない。

暴論を許していただけるなら豊受け(豊明)の国だったかもしれない。豊(台与)の王国だろうか?それはわからないけどね(^_^)


ちなみに僕が生まれ育った名古屋市瑞穂区豊岡という地区には同じように丘と古墳群がある。僕の小学校の校庭には珍しく円墳があった。銅鐸も出土している。

あの一帯も豊が作った王国だろうか?考えるだけでワクワクする。


この辺の話はまたいつの日か。


<追記> 岡崎の真東3キロほどに神明宮とヤマトタケルを祀る神社を発見。自論ではやはり東海道岡崎駅周辺に古代都市か?













東名高速沿いある神明宮。古墳もあるが、これをどう解釈するか。














その東南1kmほどにある大日尊神




隆介
Riusuke















2016年6月24日金曜日

五色塚古墳へ


神戸芸工大での講義が終わって、次の日の午前中に一度行ってみたかった垂水市にある五色塚古墳(ごしきづかこふん)へ行ってきました。



ここは、天皇家ではなくこの地の豪族のお墓とされたため、全国でも珍しく復元された古墳なのです。そして頂上へ登れる古墳としても有名です。(普通、天皇家直轄の古墳は宮内庁が管轄しており、いまだに入ることも調査発掘もできないのです)



僕の見解としては豪族で前方後円墳はありえないと思っています。やはり、天皇家の血族だとは思います。この墓の主の子孫たちが本家の大和と対立し戦いに負けたため、日本書紀にも仲哀天皇の偽の墓とされ、その名は抹殺されたと睨んでいます。



ここの別名でもある千壺古墳は、ここから大量に出土した筒型の鰭付円筒埴輪からだと推測します。
この円筒埴輪が何のためにこのような形をしているかはわからないそうですが、

ずっと眺めていると火を焚くのに適しているように思えます。空気穴もありますし、上に何か鍋をのせてグツグツ煮るのにも適しています。

僕の私見では、これは海に向かって火を焚いたんだと思います。灯台的な役目もあったかもしれませんが、僕は、「送り火」と同じ文化だと思います。


大和が潰した国の前王の呪いが起こらないように霊魂を鎮めるための送り火だったんだ推測しました。

これが後々 京都の「大文字焼き」という送り火に繋がっていったとも推測できます。大の字も古墳の形っぽいし。




とにかく結界を作っていることと、火を焚くのに適した形、そのことからもこの円筒埴輪は鎮魂のために作られたものだと思います。その後の神社のしめ縄に通じるものだと思います。





上に登って見下ろすと淡路島も見え、明石海峡の美しい景色が眼前に広がります。

海もきれいで、海産物も豊富、山も切り立ってて美しい、古代人が好む風土が揃っています。


僕は都市があった西側に古墳は作られると考えますので、きっと垂水か須磨が古代都市の位置になると思います。(邪馬台国近畿説を押していた頃はここが投馬国(つまこく→すまこく)だと思っていました。今は九州説推しですが・・・)


しかし、なぜこのような丘の上にわざわざ大きな前方後円墳を作ったのか?疑問を抱えながら新幹線で帰路につきました。








深堀
Fukahori









2015年8月24日月曜日

倭人伝中の奴国は「なこく」ではなく「やつめ(八女)こく」ではないか?!

(この前の魏志倭人伝の邪馬台国の記事のつづき。)

結論から言わせていただくと、奴国(なこく)は博多のことではなく、八女(やめ)のことではないだろうか?





そのきっかけは、自分なりに倭人伝の邪馬台国への航行ルートを現在の地図に照らし合わせて進んでみたとき、奴国の位置が八女市になったことからだった。



しかし、奴国は博多の事だと考古学では言われていて、博多と八女だと全く方向がちがうが、僕は倭人伝の使者は、博多がある東方向へ行ったというより、記述どおり、南方向に行ったほうがリアリティを感じている。

倭人伝には東の方角へ行くとは何処にも書いていない。それは東にある邪馬台国・近畿説の一番の弱点で、「倭人伝中の「南」は「東」の誤りだ」とし、東にある大和へ何とか行かせるための強引な口実だった。


でも今以上に方角が重要な古代人が、東と南を間違えるとは思えない。太陽信仰の民族が、神のいる方角を間違えるだろうか。




あと仮に東に行けば、奴国は「那(な)の津」と呼ばれた今の博多になるのだが、僕には「奴」を「な」と読むのにはどうしても違和感を感じていた。

それより「ど」とか「ぬ」「の」と読んだ方が自然に感じるのに、ここにきて「な」と読むのは博多の古称「那の津(なのつ)」に引っ張られたからだろう。



そんな疑問を抱えるある日、自分が思う史実通りの邪馬台国へ行くルートを辿ったとき、奴国に位置に「八女」があったのだ。



僕は、八女?と思ったけど、ちょっとまてよ?とも思った。


訓読みなら「奴」は「やつ」と読むのではないか?もっと調べると「め」とも読むし、さらには「やつめ」とも読む。


今でも憎い敵などを「やつめ!」などと叫んだりする・・・



※日本や韓国、香港など、漢字が渡来した地方には音読みと訓読みがある。音読みは本来の中国の読みに沿ったもので、訓読みはその土地の土着の言葉に漢字を当てはめた読み方だ。



「奴国」が訓読みの「やつめこく」だったら。それが転じて「やめこく」になり、現在の「八女(やめ)」になったとしたら。

そう仮定したとたん、一気にいろんな事が紐解けた。


八女には古墳群もあると聞くし、古代より都市があったことは間違いない。

もし、この八女が「奴国」だったら、魏志倭人伝の倭国は九州のことで、本州の大和は「大国主」が納める先の大帝国だったと想像する。(旧称:仁徳天皇陵は大国主のお墓だと僕は思っている)


それ以来、僕は「奴国」という字をみると、「やめこく」に見えてしょうがない。













で、最後に僕の比定する倭人伝中のそれぞれの国名と現在の地名をあげます。あくまでも推測にすぎませんが、確信しています。

魏志倭人伝通りいくと

→対馬
◇一大国→壱岐
◇末盧国(まつらこく)→(ばるこく)現在の松浦(まつら)付近といわれているが、
           僕は(ばる→原)ではないかと思うなので
           前原(まえばる)市あたりを比定
◇伊都国(いとこく)→(いづこく)吉野ヶ里遺跡
  ※倭人伝にはここからの放射状に各都市との距離が書かれている
  (使者は伊都国より先は行っていない可能性。文章に変化あり)
◇奴国(なこく)→(やつめこく)八女市
◇不弥国(ふみこく)→まだわからないが、久留米か鳥栖のほうだと思う。
◇投馬国(つまこく)→薩摩(さつま)か、宮崎の都万(つま)あたり(倭人伝中の水行き20日とは海岸線に沿っていくことでは)
◇邪馬台国(やまたいこく)→(やまとこく)これはまだわからないが、宮﨑県の高千穂の麓、熊本との県境付近を比定。




※すでに同じような論考を発表されている方はいると思いますが、これは私の推測にすぎません。なるべく無知な状態で、芸術家としての感性を使って歴史を紐解いていくことが楽しくて趣味として行っているものであります。







隆介
Riusuke











2015年7月2日木曜日

邪馬台国はやはり九州か


僕は、古代の歴史を考えるのが趣味でして、毎日の様に古代を探るヒントを探しているんです。


誰かがすでに論文で書いているとは思う事でも、僕なりに考え答えを出していく、それが趣味なんです。


そうして日常から歴史を解読していくのが楽しいのです。 (僕がよく話す前方後円墳が後々、菊の御紋に変化したという話は、こうしたことから気がついた一つです。)

自分で答えを見いだしたい・・・そうする事で考える筋力が付くと信じています。


そこで、邪馬台国なのですが、僕はほぼ毎日、魏志倭人伝の邪馬台国へのルートを書いた文章と地図をパソコンの目につくところに貼付けて読むようにしています。

なるべく原文を読む方がいいです。古代人の言葉が息づかいすら感じるほど聞こえてくるからです。翻訳したものは、翻訳者の勝手な解釈が入り、余計に悩ませます。
その解釈は僕には不要のもので、ほとんどの解釈が間違っているように思えるからです。


そこで、原文を毎日眺めていたら、ようやく文章のある変化に気がつきました。


それは、途中の伊都国(いとこく/僕は「いづこく」だとおもう。出雲、伊豆に繋がっていく)からの表記が全く変わるのです。そして、見ていくうちに、伊都国の重要性、邪馬台国の外交のための役所があったことや、倭人伝どおりに地図を辿れば、伊都国はちょうど吉野ケ里遺跡の場所と重なることに気がついたんです。

だから倭人伝の邪馬台国へのルートはほとんど、熊本や薩摩のあたりの航行ルートだと思われます。僕はいままで瀬戸内だと信じてきましたが、一気に崩れてます。



これは、邪馬台国九州説では定説の、伊都国からはそれぞれ放射線状に国の位置を説明したものという放射説(榎一雄氏)に非常に近く、僕もだんだんとこの伊都国から後の国は放射線状に説明していると思うようになって来ました。


いままでは、断然 邪馬台国近畿説だったのですが、疑問もあったんです。

倭人伝中の方角が南に行くと言っているのに、実際には近畿は東にあるし、混一疆理図(右図)では日本は南に伸びているから、南は東の誤りだというのが近畿説派の言い分は、ちょっと強引な気がする。



そもそも今以上に方角が重要だった古代人が東と南を間違えるはずがない。 神武東征や、神宮の配置などをみても、東を重要視し、ちゃんと方角を認識しています。


そして奴国(なこく)という邪馬台国へいく途中の重要な国。

これがどうしても僕には「奴 / な」とは読めなかった。奴国は、那の津(なのつといわれた博多のことだと学者さんは言いますが、奴を「な」と呼ぶのには少々無理がある気がする。金印(漢の委の奴の国王)が出土したからだと思うが、博多は昔から「はかた」だと思う。

博多は、井沢元彦氏が言っていたように倭人伝中に出てくる「好古都国」ではないかと思っている。中国音で「ハォコト」になることから。

博多を奴国と決めつけたらいけないと思います。


では、僕の思う奴国は何処? それがやっと見つかりました。



長くなったので、これは次回に持ち越します。




深堀隆介
Riusuke Fukahori















2015年6月22日月曜日

宇佐神宮へ。


明朝、宇佐神宮へ。 この地域を知るためにも是非行ってみたいと思っていました。

豊後高田市から車で20分程で到着。


宇佐神宮は、伊勢神宮と並び歴史は古く、古事記などにもその名がでてくるほど。プライベートでも一度は行ってみたかった場所です。


向かう途中、周りの景色(海、山、田んぼなど)が、三重県の伊勢にそっくりなことに気づきました。なんせマネージャーの奥さんは三重県出身ですので・・・。




そしてマネージャーが面白いことをいいました。「宇佐(usa)と伊勢(ise)って音が似てる」僕は、『あ!!!ホントだ!!』漢字が邪魔をして気がつきませんでした。






もしかすると宇佐の民族が宇佐に似た地形を探して伊勢に辿り付いたのかもしれません。
海からの位置や方角など宇佐と伊勢は似ています。






境内は、とても涼しくて霊気が漂う場所でした。
途中、禊(みそぎ)をする場を掃除するおばちゃんがいたんですが、とても神聖に見えて、神宮とは不思議な場所ですね。日本人の感性を刺激します。








神宮を出て、帰りみち、近くに凶首塚古墳という古墳があると知り行ってみました。

明日香村の石舞台古墳に似ています。石舞台同様、当初本当はあった盛り土をはがされたものと思われます。

名前からも推測できるように、滅ぼされた民族の王様の古墳ではないかと思います。










そのすぐ下にものすごく気になる小さな神社がありました。入ってみると先住民の隼人民族の魂を鎮魂するための社だそうで、みると神殿には、呪縛するためのしめ縄がかかっていました。





外に出てふと見ると、まっすぐの道で、遠くに宇佐神宮の鳥居が見えました。






調べるとここは勅使街道いう道でした。天皇の勅使一行が通るための道です。

この道、東からではなく西から入るというところも気になるところです。(東は太陽の昇る方角なので生まれることを意味し神聖な方角。西は日が沈む方角なので死を意味する方角。と僕は思っています。)









豊後高田のすぐそばに、このような歴史の重要な遺跡があるんです。でも宇佐と豊後高田は、豊前と豊後の国境だったので、今でも国が違う感じがしました。





深堀隆介
Riusuke Fukahori
























2015年6月19日金曜日

大分県豊後高田市へ



              宇佐神宮 (画像:ウィキペディアより引用)


今日から明日まで打ち合わせのために大分県へ再び。


去年大分市には本当にお世話になった。


しかし、今回は大分市の方角ではなく、空港から反対方向の国東半島の豊後高田市へ。



正直、初めて行く方面となる。でも、僕がずっと行ってみたいところだった。


それは、ちかくに宇佐神宮があるからだ。


去年の大分訪問では、なかなか時間がとれず断念した。 もう宇佐神宮へは行けないかと思っていたが、運命とは不思議だと思う。


きっと、古代の人々の何か痕跡がある土地のはずだから、それを見つけられたら…

今からわくわくしている。




深堀隆介
Riusuke Fukahori